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雑記。ときどき日記。


 

 現在、本ブログには個人的なことを書いています。
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コメント一覧

 
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関連:
高貴な死への願望は未成熟ゆえ
http://mkynet.hp.infoseek.co.jp/webcic/lib/inw2/za_0405280.html#1

2006.01.10 01:52 URL | tk18 #cAPDhLHE [ 編集 ]

 はじめまして、突然でごめんなさい。私は「ライ麦畑でつかまえて」及びサリンジャーについて交流できる場を探しているものですが、検索でこのページがあたり、リンクのウィルヘルム・シュテーケルの引用については、そこまで知らなかったので早速印刷させていただきました。
 面白くなかったとのこと、どこが気に入らなかったんでしょうかねえ?僕も初めて読んだ時は、何が面白いのか分かりませんでしたが、気がついたら、解説書は集めてるし、本で名前の出た本は買いあさるし、本の中で出てきた音楽までCDをあつめた次第です。

 何とかきっかけをつかみたいのですが…。

2009.05.28 18:24 URL | milo #- [ 編集 ]

milo さん、コメントありがとうございます。

私がこの作品を読んだのは、22歳の時です。

「どこが気に入らなかったんでしょうか」と問われて、理由をひとつ挙げるならば、作品を読む前の期待と異なっていたことがあるでしょう。

私は、読み手が新たな見方を獲得できるような、壮大なテーマの存在を期待していました。

しかし、当時の私は壮大なテーマの発見できなかった。だから、「私には合わなかった本」というカテゴリーにいれています。

テーマに関しては、Wikipedia ( http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%A4%E9%BA%A6%E7%95%91%E3%81%A7%E3%81%A4%E3%81%8B%E3%81%BE%E3%81%88%E3%81%A6 , 2009年5月14日 (木) 14:14の版)によれば、「自身の落ちこぼれ意識や疎外感に苛まれる主人公が、妹に問い詰められて語った夢:<自分は、広いライ麦畑で遊んでいる子どもたちが、気付かずに崖っぷちから落ちそうになったときに、捕まえてあげるような、そんな人間になりたい...>が作品の主題となっている。」だそうです。

この文章に私はチェックをしていませんので、私の「読み」は浅かったのでしょう。

小説というのはこのようなところが非効率です。言いたいことがあれば、ちゃんと言ってくれればいいのに、と思います。

「気づき」を著者は期待しているのかもしれませんが、読者が気づかぬまま通り過ぎるのは損失でしょう――著者は時間と労力をかけて、著者の頭の中の世界を、言語という関心のエッセンスの連続として編み上げたのに。

なお、milo さんは各所で「ライ麦畑.」について言及されておられるようですね。貴殿のご意見をまとめて読める場所があればよいのにな、と思います。

「もし君に他に与える何かがあるならば、将来、それとちょうど同じように、今度はほかの誰かが、君から何かを学ぶだろう。」(野崎=訳, p.295.)

2009.05.30 13:59 URL | TAKAGI-1(管理) #cAPDhLHE [ 編集 ]

 TAKAGIさん、ご返事ありがとうございます。くどいかもしれませんが、またまたコメントさせてください。
 小説は、非効率だと、回りくどいというか、はっきり言わないと。
 僕は思うのですが、小説家は、気づいてほしいとは特別思っていないんじゃないかなあということです。どうしても気づいてほしければ、もっとはっきりした手段に出るだろうなと思うのです。もちろん小説を書くという才能があれば何でもできるだろうし、あるいは小説を書くことでしか、表現のできない人もいるかもしれませんが、僕は、何もかも小説が作者の意図がはっきり分かってしまうようでは、小説を読む醍醐味が少し減るような気がします。もちろん僕の読解力のなさを言い訳したくて言うつもりではなくて、なんというか、う~ん。「星の王子さま」にも出てくるじゃないですか。
 「大事なことは目には見えない」
 う~ん、これじゃないかな?その目に見えないものを、あれこれ憶測するのも、小説を読む楽しみではないかと。もちろん勘違い、大外れ、思いこみ、などいろんな失敗を含めて小説を楽しみたいなと思うのです。

 僕は確かによそでいろんなところで発言してはみなさんにご迷惑をおかけしていますが、まとめる能力もなく、他人のふんどし借りて相撲とっている状態です。いつか僕も、パソコンに強くなれたら、自分でブログなりやれればいいのですが、そこまで行く気力というか、はっきり言って才能がなく、お邪魔させていただいては、訳知り顔で偉そうなことのたまう失礼なやつです。そもそも、僕が書いてきたようなことは、すべて解説書の受け売りですので、それらの本を手に取っていただけば、話は手っ取り早いというやつです。
 僕が「ライ麦」について、自分の意見を述べられるほど、「ライ麦」は僕にとって優しくない気がします。難解な小説だといつも思います。

 余談ですが、サリンジャーが「倒錯の森」で、名前を挙げていたジェーン・オースティンの「高慢と偏見」を最近再読したのですが、これが結構面白い小説だなあと、女の人ってこうやって物事を考えるのかあ!と、男としては興味深く読みました。

2009.05.30 15:17 URL | milo #i7T2kMRc [ 編集 ]

miloさん、コメントありがとうございます。

小説を、「楽しみとしての小説」と「表現(主張・記録)としての小説」に分けて考える必要がありそうです。実際の小説は両者の混合なのでしょう。

私なりに考えた、「主張・表現(記録)としての小説」において「非効率」が生まれる原因を、以下にあげます。矢印(→)先は、「非効率」を減少させるための方策案です。

● 「大事なことは目には見えない」: 現在の言語では表現しきれない。→ 言語を発展させていき、いつか表現できるようにする。

――「目には見えない」ものが大事であることを理解した上で、「目に見えない」ままでいいんだと安心してしまってはいけないと考えます。「目に見えた」ときに、新たな「目に見えない」ものが感じられるのではないでしょうか。

● ストーリーを提供する必要がある : 人が気分良く主張を受け入れるためには、機能だけでは不十分で、ストーリーも必要である。例: 新任の上司がやってきた時に、いくらその人が有能(:機能に優れている)であっても、関係が浅いうち(:ストーリーが不十分な間)は、ギクシャクする。→ 過去の作家と力を合わせて、読者にあった効率のいいストーリーを提供する。過去に同じ主張をした作品がある場合に、それを現在風にアレンジする。

● 時代が変わっても主張の価値が保たれるように、わざと明示しない。→ 時代にあわせた「解説」を提供する。

● 検閲を回避する必要がある

● 読者の選別を意図する

2009.05.31 09:57 URL | TAKAGI-1(管理) #cAPDhLHE [ 編集 ]

 TAKAGIさんお返事ありがとうございます。
 TAKAGIさんのような明晰な頭脳の持ち主でない僕は、何度も読み返して、やっと、(TAKAGIさんはこう言うことを言いたいのではないだろうか?)とようやく膝を突いたつもりでいます。もし違っていたら、すみませんが、もう一度ご教示いただけると幸いです。
 山本周五郎は確か「小説には面白い小説とつまらない小説の二種類しかない」とかいう発言をして、芥川賞だか、五木賞だかを辞退したとか言いますよね。それに近いニュアンスのものかなと邪推しました。
 話をこれ以上ややこしくしないためにも、山本周五郎の話は置いておいて、小説を、作者の主張の場ととるか、作者にもてあそばれるストーリー重視のものととるか?というような問題ですよね。
 もちろん読者としては、はっきり作者の意識するテーマなりを、正しく知りたいという意識はありますね。でも、それをはっきりさせない作者がいた場合、どうするか?あるいは、そういうことに絡んだ問題をどうとらえるか?ですよね。う~ん、またまた難題だなあ。読者の限定とか、わざとテーマをはっきりさせないのは、なんとなく僕の直感的には、
「ずるい著者」
 という気がします。僕にはなんだか、言葉では伝えきれない、何かもっと大きな悲しみとか、喜びとかがある気がするんですよねえ。もちろんそれは言語が発達したら、伝わるかもしれないし、それが伝わったとして、また新たな謎が生まれるかもしれない。でも、作家さんというのは、もっと真摯に作品と向かい合う人たちであってほしいと僕は思います。その作品がたとえ、古典の焼き直しであったとしても、その時の作者のモラルは、それで売り上げを伸ばそうとか、新しい読者の開拓といった、なんというか、打算的なものではあってほしくないと思います。自分の心の底からの、本当の魂の叫び的なものであってほしいと思います。それが結果として難解なものになって、何が主張したいのか一般にはわからない作品であっても、そこにおける作者の心のよりどころのようなものが、ある種の小説家としての情熱によるものであるなら、僕は受け入れたいと思います。
 (こんなんでよかったでしょうか?読解力は恐ろしく低いので-それを自慢する気は毛頭ないけど-ちょいと不安ですが、懲りずにお付き合いいただけると嬉しいです)

 またまた余談で、今度は音楽になりますが、プロコルハルム、ってご存知ですか?古いポップスバンドで「青い影」がヒットした(1960年代の話ですが)グループの、歌にこんな歌詞があります


 シンプルな物語を書こうと腰をおろした
 最終的には歌になるかもしれない
 どの言葉もすでに先人が書いている
 僕たちは交替でこれらの詩を
 次の世代に伝えようとしてるんだ
    (訳者不明)

 「ライ麦」は僕にはサリンジャーの真摯な叫びが聞こえる作品のように思えるのですが。

2009.06.01 19:28 URL | milo #- [ 編集 ]

miloさん、コメントありがとうございます。

確かに、「真摯な著者」が一番大切ですね。より具体的にどのような人かといえば、表現すべきことにしっかりと向き合い、的確な言語表現に挑戦する人でしょうか。シェークスピアが英語の発展に大きく寄与したことがよく知られています。

人という切り口でいえば、他にも以下のような人が要るでしょう――作品が「見つかるようにする」「読めるようにする」、優れた解説者・出版者・司書 (および図書館システム) 。

さらに、作品を読んで自分なりに解釈し、新たな視点を付け足し、不要ものを除いて、新たな作品を創る次世代の表現者も要るでしょう。

何事も存在するだけでは価値が小さいのです。適材適所の組み合わせによって価値が大きくなるのでしょう。

「プロコルハルム」の歌詞から、私は、先人への感謝と畏敬、そして現在の表現者の使命感と歌にするという挑戦的気持ちを感じます。

2009.06.02 07:24 URL | TAKAGI-1(管理) #cAPDhLHE [ 編集 ]

 TAKAGIさんお返事ありがとうございます。
 なるほどシェイクスピアが英語の発展に寄与したというのは。僕にとっては初耳ですが、言いえて妙という気がします。
 確かに図書館のようなシステムも、大切でしょうね。われわれにとって、水先案内人になってくれるような人というのも必要でしょうね。でも、そうい人ってとっても希少価値で、めったに巡り合えるものではないというのが僕の経験上の答えです。悲しいかな、めぐりあわせが悪かったのか自分に非があるのか?よく分かりませんがそういう出会いは大切にしたいですね。
 確かに次世代の表現者、そういう人たちも歴史の上では大切な役割を果たしてくれるでしょうね。そして我々読者に喜びも与えてくれるのですから、大切な人たちです。
 適材適所ですか、なかなか鋭いことをおっしゃいますね。確かに価値が大きくなるのは良いことですから、大切なことだと思います。
 プロコルハルムは、個人的には少年時代にこの曲を初めて聴き、歌詞なんてさっぱりわからないまま青年期を過ぎ、おっさんになったこの年でようやく対訳のついたCDを購入し、(こんな歌だったのか)と改めて感動した次第です。なかなかいい歌詞ですよね。僕も大好きです。

 そういえば、僕のサリンジャー初読年をお伝えしていませんでした。別に重大なことでもないですが、僕が「ライ麦」を読んだのは、高校生の時、確か17の時だったと思います。友人に、(読書好きの)
 「何かいい本を進めてくれよ」
 とねだったら、貸してくれたのがこの本でした。当時はさっぱりわけがわからず、それでも何かの魅力のような魔力のようなものを感じ、大学時代もずっと引っ張って、働き始めたころから一時遠ざかって、それでも、最近になってとても感動するようなすぐれた解説書に出会い、またまた再燃。そして現在に至っています。

2009.06.02 18:38 URL | milo #- [ 編集 ]












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